ダニエル・カーネマン「経験と記憶の謎」

ダニエル・カーネマン「経験と記憶の謎」

 

ノーベル賞受賞者であり、行動経済学をつくり上げたダニエル・カーネマンが、休暇や大腸内視鏡検査の例を交えながら、「経験の自己」と「記憶の自己」の幸福の捉え方の違いを語ります。この識見は、経済や公共政策、我々の自己意識と密接な関係をもち、意味深いものです。

以下、日本語翻訳全文です。

最近幸福について話す人が多いですね。
過去5年に出版されタイトルに「幸福」が入っている本をある人に数えてもらったところあまりの量で40冊ほどで諦めてしまいました。

研究者たちの幸福に対する興味の高まりはかなりのものです。
幸福のコーチングもたくさん行われ皆に幸福になってもらいたいことがわかります。
しかしそのような努力があるにも関わらず、幸福について明瞭に考えることをほぼ不可能にしてしまう認知の罠が幾つかあります。
今日はこの認知の罠を取り上げます。

これは自らの幸福を願う一般の人にも、幸福を追究する学者にも当てはまります。
なぜなら誰もが混乱した状態にいるからです。

罠の一つは複雑さを認めることへの抵抗感にあります。
幸福という言葉はもはや役立つ言葉ではない、という事が明らかになりました。

この言葉を様々な事にあてはめすぎるからです。

この言葉には特定の意味合いがありますが、概して狭い意味に限定することは諦めて、幸福な状態ウェルビーングとは何か、もっと複雑な見方をしなくてはいけないのです。

二つめの罠は、体験と記憶を混同してしまうことです。
生活の中で見いだす幸福と自分の人生の幸福度合いこの違いです。
この二つは非常に異なる概念ですが、どちらも幸福という一つの観念にまとめられがちです。

三つめは、錯覚に焦点を置くこと、幸福の状態を左右する状況をゆがめて考えてしまうのは残念なことです。これはまさに認知の罠です。正確に理解する方法が無いのです。例を出してみましょう。私の講義の後におこなった質疑応答である方がこんな話をしました。彼は交響曲を聴いていてその音楽に聞き惚れていたところ、その曲の終わりに耳をつんざく音が入っていました。彼はかなり感情的に曲が台無しになったと言いました。でも台無しになったのは曲ではなくその経験の記憶です。彼は素晴らしい曲を20分聴いていたのに、その価値がなくなったのは台無しになった記憶が残ったからです。彼に残ったのは記憶しかありません。この話から我々が自らを二つの自己として考えているらしいとわかります。

経験の自己、これは現在を生き現在を経験し過去にも戻れる自己です。でも基本的には現在しかありません。例えば医師が「ここを触ったら痛みますか?」と尋ねる相手は経験の自己です。そして記憶の自己というのがあります。記憶の自己とは、記録を残し人生の物語を紡ぎます。医師が尋ねる質問を例に出すと「最近の調子はどうですか?」「旅行はいかがでしたか?」なんて質問です。この二つはまったく異なるもので、「経験の自己」と「記憶の自己」を混同してしまうのは、幸福の観念に見られる混乱なのです。

記憶の自己は、語り手です。我々の記憶の基本的な反応で、すぐに動き出します。話をするとき我々が単純に語っているのではなく、記憶が物語るのです。要は経験から引き継がれたものが話になるのです。
その一例を挙げてみます。昔行われた研究で、大腸内視鏡検査を受けた実際の患者から得たデータです。この検査は今となっては痛みを伴いませんが、研究が行われた90年代には痛みを伴う検査でした。患者は60秒ごとに痛みの度合いを報告するように言われ、これは二人の患者と彼らの痛みを記録したものです。この二人のうちより苦しんだのはどちらかと聞かれたら、明らかにそれは患者Bですね。彼の検査時間のほうが長く、患者Aが毎分感じた痛み以上に患者Bは痛みを感じました。さて別の質問をします。患者自身にどれだけ苦しんだと思うかと尋ねると、驚くことに患者Bよりも患者Aのほうがより嫌な記憶として覚えていたのです。二人の検査の話は異なっていました。なぜならその話の一番重要な部分は、検査の終わり方なのです。どちらの話も心を打たれるような内容ではありませんが、一方はもう片方よりも明らかに悲惨なものなのです。より嫌な記憶として語られた方は、まさに終わるときに痛みがピークを迎えていました。本当に悲惨なものです。対象となった患者には検査後とかなり時間が経ってからインタビューしました。検査全体の印象を評価してもらうと患者Bよりも患者Aがより大変だったと答えました。これは経験の自己と記憶の自己の間で起こるはっきりとした矛盾です。
経験の自己の視点で見ると、患者Bのほうが大変だったのは明らかです。患者Aにどうすべきだったか実際に行った臨床実験で効果が確かめられているのですが、患者Aのチューブをそれほど動かさず大腸内視鏡検査を長引かせますそうすることで患者は痛みを感じますが、その痛みはほんの少しで、それまでに比べて痛みは激減します。これを数分やれば患者Aの経験の自己にはつらい思いをさせますが、記憶の自己にはずっとましな処置です。なぜなら患者Aに与えた経験の物語はましなものになっているからです。

物語を形作るのは何でしょう。
これは記憶を通して我々が思い出す話や我々が作り上げる話にも共通したことです。
話を明確にするものは変化であり、決定的な瞬間であり、結末なのです。結末は非常に重要な役割を果たしていて、この患者のケースでは検査の締めくくりが左右したのです。

さて、経験の自己の人生には切れ目もなくどんな瞬間でも次から次へと経験をしています。
「この瞬間」の行方を問うと答えは非常に簡単で、永久に失われます。
人生における時間の大半です。
心理的現在は約3秒だと言われており、その3秒は人生で約6億回月に約60万回もある計算になりますが、ほとんどが形跡を残しません。ほとんどが記憶の自己に無視されてしまいます。それでもどういうわけか今この瞬間には価値があり、そこで起きている事こそが人生であると感じるのです。
我々が生きる間に体験できる、限られたものであり、人生をいかに過ごすかということが価値を持つように感じますが、これは記憶の自己が残す話とは違うのです。記憶の自己と経験の自己とはまったく別物なのです。

一番の違いは時間の扱い方です。経験の自己の視点で見てみましょう。
休暇に出かけるとします。1週目も2週目も同じくらい楽しければ、2週間の休暇の充足感は1週間の休暇の2倍です。
記憶の自己はこのようには働きません。2週間の休暇は1週間の休暇とさほど変わらないのです。
なぜなら新しく加わる記憶はなく、話自体を変化させる事がないからです。

このように時間は記憶の自己と経験の自己を区別する重要なポイントです。
この休暇の例に時間はあまり影響力はありません。記憶の自己は話を記憶し語ること以上の働きがあります。実際に決断をするのは記憶の自己です。例えば大腸内視鏡検査を2回二人の医師から受けた患者にどちらかの医師を選んでもらうとすると、その患者は記憶の中でましだった方の医師を選びます。この選択をする際経験の自己は関わっていません。通常我々は経験から選ぶ事はせず、記憶から選び出します。未来のことを考える時でさえ経験として考える事は普通ありません。先を見越した記憶として未来を見ています。これは記憶の自己による専制政治と考えてください。記憶の自己が決めて経験の自己に対して望んでいたわけでもない事も経験させるのです。
私が感じるのは我々が休暇に出かけるのは、大半のケースに言えますが。休暇とは記憶の自己のために行くものだという気がします。これを正当化するのは少し難しいのですが、我々は記憶をどれだけ思い返すでしょうか?
これは記憶の自己が支配している説明の一つです。

この事を考える時、数年前の南極旅行を思い出します。
それは今までで最高と言える旅行で、その他の旅行に比べて思い出す回数も多いのです。
その3週間の旅行を過去4年のうちに思い出したのは25分程度でしょう。
もしも600枚の写真を見返したとしたら、1時間追加されるくらいです。
3週間の旅行に対し、せいぜい1時間半の記憶なので何となく不釣り合いです。私は平均的な人ほど記憶を思い返すことをしないのかもしれませんが、もっと頻繁に記憶にアクセスしたとしても、真の疑問が残ります。
なぜ経験と比べて記憶に重きを置くのでしょうか?

ここである思考実験をしてみましょう。
皆さんの次の休暇で休暇の最後になって、全ての写真が削除されるとします。皆さんは記憶喪失の薬を飲まされ旅行の記憶はゼロになります。それでもその休暇を選ぶでしょうか?(笑)
もし別の休暇にするならば二つの自己が対立しているので、その対立をどのように解決するか考える必要がありますが、実際のところわかりづらいんです。時間を優先すればある答えが出てくるでしょうし、記憶を優先すれば別の答えが出てくるかもしれません。なぜその休暇を選んでいるかという二つの自己の間にある選択肢は、我々が直面する問題です。

二つの自己は二つの幸福の観念をもたらします。
二つの自己に対して適用できる幸福の観念がひとつずつあるのです。
そこで出てくる質問は
「経験の自己はどれだけ幸せなのか?」、
そして「経験の自己の人生においてどれだけ幸せを感じているのか?」。

幸福に感じる瞬間とは非常に複雑なプロセスです。測定できる感情とは何でしょうか?

経験の自己が感じる幸福と時間の関係性はわかっていただけたと思います。
もし記憶の自己の幸福を尋ねるとしたらそれはまた別物です。
これはある人がどれだけ幸せに暮らしているかということではなく、その人が自分の人生を考えたときにどれだけ満足しているかということです。
かなり違う観念ですね。
この観念の違いがわからなければ、幸福の研究はうまくいきません。

私はまさにこんな感じに長い間幸福の研究がうまくいかずにいる学者の1人です。
経験の自己の幸福と記憶の自己の満足感が違うという事実は近年気づかれるようになってきました。
現在では二つを隔てて測る努力もされています。
ギャラップは50万人を対象に世界中で世論調査を行い、自分の人生と経験をどう思っているかアンケートを行いました。そしてそれに沿った形で他の調査も進んできました。近年では二つの自己に絡んだ幸福に関して解明し始めたところです。我々が学んだ主なことは二つがまったく別物だということです。ある人の人生の満足度を測る事はできてもそこからその人がどれだけ人生を幸せに過ごしているかはわかりません。
反対のことも言えます。
その相関性を示してみます。

相関性は約0.5です。例えば父の身長が180cmだとある人が言ったとしても、彼自身の身長に関しては何もわかりませんね。多少の目安にはなりますがはっきりしたことはわかりません。それくらい不確かだと思ってください。
ある人が自分の人生は10点満点中8点だと言ったとしても、どれだけ経験の自己が幸せなのか推しはかることはできません。ですから、相関関係は低いのです。
幸福に対する満足度を支配する要素はわかっています。
お金は大切ですし目標も大切。幸福とは主に好きな人と共に満足することであり、好きな人と時間を過ごすことです。
他にも考えられますがこれが支配的です。ですから二つの自己の幸福度を強めたい場合は、まったく異なる事柄をする事になるでしょう。

要は幸福は心身ともに健全でいることと同じ事だと考えるべきではないのです。
二つはまったく違った観念です。
ここで手短に説明しますが、幸福を考える時、これほど複雑化するもう1つの理由は、人生に関して考えるときと実際に生きている日々とでは我々は同じことに注目していないということです。
カリフォルニアの人たちに幸せの度合いを尋ねても正しい答えは得られません。その質問を他の人にするとカリフォルニアのほうが幸せなはずだと思うのです。例えばオハイオの人なんかね(笑)。
ここで起きるのはカリフォルニアで暮らす事を考える時、カリフォルニアと別の場所を対比させて考えるということです。
例えば気候の違いです。実は気候というのは経験の自己には重要ではなく人がどれだけ幸せなのかを決める記憶の自己にもそれほど重要ではありません。しかし記憶の自己がつかさどっているので、中にはカリフォルニアへ引っ越す人が出るのです。

幸せになるだろうと期待してカリフォルニアへ移り住む人たちに何が起こるのか、追跡するのは興味深いんです。
経験の自己が一層幸せになる事はありません。
本当です。
でも確実に言えるのは、彼らがもっと幸せだと思うようになる事です。
なぜなら、彼らはオハイオの天気がどれだけ悪かったか思い出し正しい決断をしたと感じるからです。
心身ともに健全でいることを事実どおりに考えるのは非常に難しいのです。
どれだけ難しいことなのか、わかってもらえたでしょうか。
ありがとう。